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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

「魔法先生ネギま!」も「萌え漫画はつまらない」という前提がポイント

 先日の「イメージで語られてしまう」作品の話とも通じる記事ですが。

で、「魔法先生ネギま!」って漫画があるんですよ。
ポイント2のあたりで指摘したようにそれこそ「ラブひな」の連載中から既に、
(「ラブひな」人気に便乗した類似品が多かったのもあって)有明界隈では食傷気味な人が多かった。
でもそれは食わず嫌いとかじゃなくて、パターンを熟知していたからこそで。
魔法先生ネギま!」の連載が始まった頃にはライト層にもそういう意識が蔓延してて、
赤松健自身、他にもっと上手い人が(同じパターンで)描いているから違うものを描きたかったとか。

30人のヒロインがキミの恋人!というキャッチコピーを聞いたとき、どう思いました?
3、ネギまの第一印象はどうでしたか?
二次元美少女のインフレもここまできたか。
当時は本当にそう思っていたし、肯定的な印章を持っている人は少なかったように見えます。
これがもうある意味で先入観です。例えば「3年B組金八先生」みたいな話なら、
主人公は子供先生で、30人の生徒は脇役に過ぎません。というか、主人公は先生です。
ラブひな」とか「赤松健」とか、一般人は知らんのです。

こうして全ての布石は、修学旅行編のクライマックスへと収束していきます。
そこで綾瀬夕映がこれまでの常識を覆す一大スペクタクルに遭遇するのと同調して
30人のヒロインにばかり目が行っていた僕たちは、
魔法先生ネギま!」が少年漫画だったという衝撃の事実に直面します。
目から鱗です。少なくとも自分はそうでした。
更にこの一連のエピソードは、長い長いネギま!の物語の、ほんの入り口に過ぎなかったのです。


最初から先入観を持たずにネギ先生が主人公の少年漫画として読んでいたらあそこまでの衝撃はなかったし、
萌え漫画だと思わなければそこまで丁寧にクラスメイトの動向に気を配らなかったかも知れない。

 そういえばその逆に、一度少年漫画として理解されて評価されたネギまをもう一度「良い意味での」萌え漫画として再評価して、両者の融合を見出そうとされていたのがあんよさんですね。
 エーミッタムに寄稿して頂いた「ネギま!における成長する少女達」からの引用ですが。

 ところで「あざとい萌え漫画」なるものが、少女を表層的・記号的な萌え対象というモノの次元で読むものだと仮定すれば、一方そのモノ性を覆すための「少年漫画」視点もまた、もしそれを過剰に推し進めた時、やはり少女を(少年の成長手段として)モノ化、道具化して読む力へと転じかねない。
 ならば、「少年漫画」として評価するためにいったんネギへと重心を移して読まれた『ネギま!』を、再び少女達の側に重心を戻し、ただし「モノ」を越えたその主体性と成長とを確認することにより、この作品を少年少女双方の成長物語として改めて捉え直せないだろうか。

 武道会編終了後は、少女視点のエピソードがずっと続いてますので、こういった読者の読み方を実証するものになってますね。