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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

来るべきあびゅうきょ論のため

izumino2006-01-01

あびゅうきょの新刊」という言葉の響きは、ある人々にとっては、それだけで不思議に心地良い違和感をもたらすものかもしれない。その違和感は、あびゅきょが寡作の作家でありつづけてきたという事実にだけではなく、この作家の負っている歴史の重みにも拠っているのだろう。

これほど真摯に、宮崎駿の根に存在する病を顕在化させた作家はいなかったし、その病を正統に引き継ぎながら現代に叩きつけた庵野秀明(およびその世代)への共鳴を、独特なやり方で表明しつづけた作家はいない。

 トラックバックより。力の入ったあびゅうきょ論の整理。
 そういえばぼくがウェブで批評っぽいことを始めようと思った動機のひとつに「あびゅうきょのことを語りたかったから(その練習の為に)」というのがあったんですが、いまだに物書きとしての力不足を実感せずにいられません。ファン同士の意見交換が少ないこと自体も原因のひとつでしょうが、難物の作家だと思います。


 ちなみに先日の冬コミでは、二年間のコミケブランクを埋めるべく未入手の既刊新刊を四千円分購入してます。
 2005年夏・冬それぞれの新刊、『フェミファシストヒルダの大冒険』と『阿佐ヶ谷お伊勢の森覚醒巫女』は特に素晴らしかったです。
 喪男ブームの昨今で、この才能が注目されないのは損失だとしか言いようが無いでしょう。
 物事というのは、暗部と明部がワンセットになって成り立っています。
 昨今の萌え業界においては、戦略上、ある種の「男らしさ(ヒーロー志向)」や「純粋さ(純愛好き)」を強調していく必要がありますが、そういったイノセンスが持つ暗部の危うさを突いているのがあびゅうきょの同人作品でしょう。*1
 と同時に、ぼくの中では暗部も明部も本質の所で通底しているんですけどね。どちらも「役に立たないが、美しいもの」を幻視せしめることで、生きていく為に必要な力を蓄えようとしているのだから。
 暗部を剥き出しにするか、明部だけを見せるかの違いでしかなくて、完全に表裏一体なわけです。例えば「救いが無いこと自体に救いがある」というような読み方ができないと、暗部を描いた作品を愉しむことはできないし、逆に「虚飾で塗り固められているからこそ価値がある」と思い込めない人は、明部を描いた作品に対して何の有り難みも感じられないんだと思います。

*1:残念ながら、そのヤバさは商業作品である「影男シリーズ」を読んでも伝わらないと思う