HOME : リクィド・ファイア
 移行後のはてなブログ:izumino’s note

『仮面ライダー響鬼』井上響鬼に対するスタンス

 プロデューサー、脚本家交替で大きなお友達の機嫌を損なわせている『仮面ライダー響鬼』ですが、さて、その脚本家が井上敏樹になったことでどういう路線変更がみられるかというと……。
 mixiに書いた感想に加筆修正して、現状把握として掲載してみることにします。

今の響鬼の間違い

 響鬼のテーマは確かに「努力」であって、それは古典的「スポ根」概念の復古運動でもあるのだけど、しかし響鬼の現代性っていうのは「獲得」の努力ではなく「克己」の努力を描こうとしているという点だ。それは先々週の回(二十九之巻 「輝く少年」)に感動しながら考えていたことでもある。


 過去における「努力(スポ根)」というテーマは「努力すれば報われる」「何かを手に入れる為に努力する」という高度経済成長時代的なハングリー精神、フィジカルな成長に基づいていたのであるが、響鬼で描かれているそれは「自分の弱さを乗り越える」「ヒーローの側に居ることで、自分を変える努力をする」というメンタルな成長に置き換えられている所に今日らしさがある。


 その折角の現代的要素を、井上脚本では再び「獲得」のテーマに押し戻してしまうことで帳消しにしてしまった。これでは、はっきり言って「響鬼」で描く意味が無い。
 アンチテーゼ(テーマ的な遠回り)として、あえて「獲得」の物語を提出してみせたのかもしれないが、もしそうではなく、このままの路線で行くつもりなのなら、陳腐なテーマだとしか評しようが無い。
 「獲得」か「克己」か。今後その違いを判断基準にしてこの番組を評価していくことになると思う。勿論、結果的に面白いものになるのならテーマの路線変更は罪ではない。しかし、もし路線変更前のテーマを活かさず無駄に終わらせてしまうのならば、それは罪だろう。落胆するのは一部の特撮オタクだけではない。子供の親だって番組を楽しみにして観ているのだ。元々、『仮面ライダー響鬼』は親子で観ることを前提にしたようなつくりをしている。*1


 以下は、もう少しテーマ的に踏み込んだ余談。
 思えば、明日夢の家庭に「父親の姿」が存在しなかったというのも、 現代的な舞台立てだったと思う。それは何も母子家庭が現代的だという意味ではなくて、子供にとって父親の職業や生き様が「目指すべきもの」になりうるとは限らない(むしろ稀である)、っていうことが現代の価値観においてリアルだからだ。


 「職業選択の自由」という概念を現代人は何の疑問も持たずに受け入れているが、それは「家制度」や「世襲制」が意味を持たなくなっていることに繋がってくる。たとえ自営業の家の生まれであっても、子供は親の職を継ぐべし、とは強制されない。
 また、それは「目的」の希薄化でもある。現代の子供は、何かを乗り越える努力をする以前に、目的自体を見つけづらい環境で育てられている。
 だから明日夢が憧れるヒーローは実父ではなく赤の他人でなければならなかったし、また、明日夢の「ヒビキさんの弟子になろう」というベクトルは隠蔽され続けなければならなかった。
 現代人のモラトリアム期において、簡単に「夢」や「目的」を手に入れてしまう機会はファンタジーと言っても良く、リアルではないからだ。明日夢が明確な夢や目的を手に入れた時点で、視聴者にとって彼は遠い存在になってしまうのである。
 明日夢にとっての「ヒビキさんの側に居る」という体験なら、視聴者の「響鬼を毎週観る」という体験に置き換えることができるのだが。


 だからこそ、『仮面ライダー響鬼』は「獲得」ではなく「克己」をテーマに据える。モラトリアムに対して「夢を掴む為に頑張れ」と言うのではなく、「夢が見つかる前に、とりあえず自分を鍛えておけ」と言うのがヒビキというヒーローだった。例えば、不良を怖がるなとか、そういうレベルで。
 ただそれだけでは「目的の先送り」であって、モラトリアムを延長させてしまうだけだから、より誠実な物語を紡ぐ必要があった。夢や目的を手に入れるなら手に入れるで、そこまでの過程を一年かけてゆっくりと描ききらねばならない問題だった筈なのだ。


 しかし、今週の話(三十一之巻 「超える父」)では明日夢の父親の姿が明らかにされ、新キャラは簡単に「乗り越えるべき父親代わり」をヒビキの中に見出してしまう。
 さて。

*1:例えば、番組中の漢字表記に振り仮名を振ろうとしないのは、親が読み上げてやることで生まれるコミュニケーションを期待しているからだろう