あんよさんとネギま
ちょっと前からあんよさんがウチの赤松健論に触発されて、(それまで食わず嫌いだった)『魔法先生ネギま!』を読み、すっかり「少年漫画として」ハマってくださったとのことで、それは有り難くも嬉しい話です。ちなみにあんよさんと言えば『アニメ版シスター・プリンセス考察大全』の偉い人。
そのあんよさんがいくつかネギまに関する感想と考察を書いておられますので、ここで紹介しつつ、反応してみようかと思います。
あんよさんは終始「バトル編」と「クラスメイト編」の描き分けについて着目しておられるんですが、これがぼくにとっても再発見が多い考察内容になってます。
個人的に興味深かったのが、よっつめの考察です。
ただ、「少年漫画」への視点を少々ずらし、少年ネギの成長ではなく少女達の成長に目を向けると、この方式の適用の仕方も一緒にずらせるように思う。つまり、一部の少女達には、「学園コメディパート」にこそ重要な成長の機会があるのではないか。ネギの「大目的」は作品の中心的主題であって当然だが、少女達にはそれぞれの「大目的」があるからだ。
(中略)のどかを初めとする少女達にとっては、まさに恋愛こそが真のバトル、<女の「タタカイ」>(咲耶)にほかならないからだ。実際に、まき絵やあやかは、「学園コメディパート」でネギを奪い合ってしばしば争う。そして最近では、のどかの親友である夕映が、両方のパートにまたがって、のどかとの恋愛バトルに足を踏み入れかけている。少女達は恋愛をめぐって成長し、絆を深め、あるいは失う。
主人公ではなくヒロイン側に目を向けてみると、「バトルパート」と「学園コメディパート」の存在価値が逆転する、という新しい視点には成る程、とうなづかされました。
そこで以前、子供の主人公が年上のヒロインから男扱いされるには、バトルを利用するのが一番手っ取り早いと指摘したことに繋がるんですが、バトルパートのネギはヒロインを恋愛対象として見ていなくて、ただ「男をあげる」活躍をするだけなのだけど、そうすることでヒロイン達を惚れさせるだけの素地を備えていきます。逆に学園コメディパートのネギは「子供」でしかなく、「年上の女性」であるヒロイン達の魅力に振り回される側にあります。
一方、ヒロイン達にとっては学園コメディパートこそが「女をあげる」成長の場であって、そうすることで時々ネギを戸惑わせたり、年上の女性としてネギを導いたり、癒したりする。そしてバトルパートでは「男としての」ネギの魅力を再発見することになります。
要約してみると、
ネギが非日常の側に居る時(≒バトルパート)*1
- ネギにとっては・・・「男の子として成長する為の戦い」
- ヒロインにとっては・・・「主人公に惚れる機会」
ネギが日常の側に居る時(≒学園コメディパート)
- ヒロインにとっては・・・「女の子として成長する為の戦い」
- ネギにとっては・・・「ヒロインに振り回される機会」
という、綺麗な逆転構造になっていることが解りますね。
付け加えて言えば『魔法先生ネギま!』は、「子供と年上」「教師と生徒」という主人公とヒロイン達の上下関係が、「シチュエーションによって逆転する」という構図が特徴になっています。どちらの上下関係も恋愛に対するブレーキ作用を持っていたり(年の差があるから、教師と生徒だから)、対人関係の二重性を生む効果を備えています(子供なのに教師だから生徒を守るとか、教師なのに子供だから年上に説教されるとか)。
その事自体は前から気付いていたんですが、それが更に「非日常」と「日常」で色分けできるとは思っていませんでした(どういうタイミングで逆転するかまでは考えていなかった)。良くできてますねえ。
この視点で眺めると、 85時間目における本屋デートの結末は面白くて、83時間目では超人的なアクションを行うネギにのどかは惚れ直す(=立場はネギの方が上)のだけど、85時間目で日常の場に戻った途端、のどかは「お姉さん(=上の立場)」としてネギにアプローチしようとしているわけですね。
勿論、漫画というものは全てが杓子定規で作られているわけでは無いですから、例外エピソードもあると思うんですが、基本的にはこういう解釈でネギまの恋愛関係を捉えて構わないと思います。面白いですね。
とまあ、いずみのさんの論考にのっかるかたちで色々書いてみました。これは赤松健論批判ではありません。そこで定められている「少年漫画」の視点をアニプリ考察的視点(序論参照)に若干ずらしただけで、用いた概念のほとんどは赤松健論と原作漫画に依拠しています。つまり、それだけ応用可能な枠組みがそこで与えられてるわけで、あらためて「いずみのさんすごいなー」と感じました。
ぼく自身、<ネギま!編>のあとがきで「本論を下敷きにすることで、更なる作品語りが読者の間で広げられれば嬉しい」と書いたように、あんよさんはその期待に初めて応えてくださった方、という感じです。
ちなみに楽屋話をしておくと、「ねぎま串方式」という呼称をこじつけたり、理論的に体系化したのは確かにぼくなんですけど、原案自体は結城忍さんですので(彼自身は「日常と非日常の融合」という呼称を用いていた)、真に「すごいなー」なのは結城さんだったりするんですけどね。
つまり、赤松健論の読者は、ぼくを通して、ぼくの師匠筋を見ているのだとも言えます。
ロマンチックに言えば、こうやって漫画の読み方というのは受け継がれていくのかもしれません。
これは結城さんとも良く言っていることなんですが、ぼくは「少年漫画の読み方」のほぼ全てを結城さんから学び取っています。でも実際には、結城さんとぼくの「読み方」は全然違うものになっている筈です。そして、ぼくとあんよさんの「読み方」も全然違うものになっていて、ぼくはそこに新たな驚きを発見することができる。
これは理想に近い、良い漫画読み同士の関係だと思います。
*1:バトル路線じゃなくても、ネギが魔法の力を使って活躍している時を含む