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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

考察の書き方

 あんよさんの日記で少し話題になっていることですが、ちょっと自分の意見などを。


 正直に言うと、一度書いた文章っていうのは「何を書いたか」は割と鮮明に覚えてるんですが、「何故書けたのか」はあまり覚えてなかったりします。だから「書き方」というのを具体的に意識しないまま書いてるんだと思います。
 我ながら、かなり直感に頼って書いているので細かいプロセスなんかは説明できませんが、自分的にかなり重要だと考えている作業が「信頼できる友達の意見を訊く」ことですね。
 友達から意見を聞いて、その意見の方が面白い、と思ったら貪欲に取り込んで文章化します。意見提供者の許可は一応取りますが、結果的に「さも自分が考えたような」、人の手柄を奪ったような書き方になることもしばしばです。
 でも、それが「我田引水」だとか「人の褌で相撲を取る」だとか、マイナスの意味で捉えないようにしています。自分がその人の意見を訊いて納得した、という知的体験の重さが大切なわけです。


 まぁ、考察を書くことの何が素晴らしいか。あるいは、「書いた本人にとって良い考察とは何か」といえば、それは「書く前と書いた後で、自分の考え方が変わってしまった」考察を書くことであり、それが本人にとっての良い結果なのではないでしょうか。
 そのような結果を生むのに一番手っ取り早い手法が「信頼できる友達の意見を訊く」ことです。他人の意見を文章の中に取り込むことで、当初の理路が歪み始め、結論がすり替えられていくわけですが、その時点で「自分の考え」は「書く前」と比べて変質してしまっているんですからね。知的体験が文章化された瞬間です。
 いわば、そこには「自分自身をも納得させえた説得力」が含まれているのであって、だからこそ、その考察は一定の説得力を保証されているんじゃないかと、思うわけです。
 無茶苦茶な詭弁を言ってしまえば、人の意見も訊かず、また、書く前と書いた後で自分の考え方が変わっていないような考察は、実は誰も納得させたことの無い考察であるということにもなるでしょう。
 説得力のある文章は、書いた本人にすら影響を与えるものではないでしょうか。書き手は、その文章の第一の読者でもあるわけですから。


 赤松健論の<少年漫画という視点から〜>は、特にそういう結果が強く出た考察でした。
 あれがぼくにとってお気に入りになっているのは、「自分の考えていることを上手く書けたから」では決してなくて、「書く過程で自分の考え方が劇的に変わったから」です。
 流石に、そこまでのモノは中々書けるチャンスが無いでしょうね。*1

  • 余談

 ついでに私見ですが、ぼくは「悪口なら誰でも書ける」「批判するだけなら簡単」という言葉があったとしても、なお、悪口や批判を書きたいと思った時は書きたいと思うタイプです。
 逆説的に言えば、「優れた悪口は誰でも書けるもんじゃない」し、「優れた批判をするのは簡単じゃない」からとも言えるでしょう。
 それだけに、表立った所で書く時は自己規制を強めるようにしているんですけどね。毎回優れた文章が書けていれば、苦労はしないんですが。

*1:ちなみに、ここまでの結論を導く過程でも、自分の考え方っていうのは途中で変わっちゃってますね、一応