HOME : リクィド・ファイア
 移行後のはてなブログ:izumino’s note

最近考えていることをつらつらと書き残すことにするが

 「現代の日本人は『愛』という言葉の意味を説明する時にセクシャリティを用いることが最も効果的な時代を生きている」と思う。
 現代の日本人、という括りが大風呂敷すぎるなら、「現代のオタクは〜」と言ってもいい。
 前述のプリンセス萌えもしかりで、まずセクシャルな魅力を入り口にして、我々はインペリアリズムに対する帰属精神や忠誠心、つまり愛情を強く感じることができる。
 『愛してるぜベイベ★★』もそうだし『シスタープリンセス』もそうである。我々はゆずゆに、妹たちに絶大な家族愛を感じるのだが、その前段階にはやはりセクシャルな関係が用意されているし、我々もその関係に心を揺さぶられる。
 ボーイズラブガールズラブ(百合)もそうで、優れたBL/GL作品は、性愛に囚われない愛情(エロス的ではなくアガペー的な)を描こうとするのだが、その入り口として我々が期待するのはやはり「同性を異性のように好きになる」というセクシャリティなのだ。
 我々は何かを愛そうとした時に「まるで恋人のように愛する」ことに説得力を感じる時代に生きている。そのような時代にある社会を「セクシャリティが支配的な社会」と呼んでもいいかもしれない。
 逆に、我々は異性愛以外の「愛」を説明しようとする時、途端に捕らえ所が無くて、カビくさい、嘘くさいような感覚を覚える。「愛は地球を救う」時に使われる「愛」などはその最たるものである。


 この「まるで○○のように愛する」の「○○」に入る言葉は、民族・宗教・時代などの背景によって多様に変化するため、今我々が「○○」の中に「恋人」を代入しているのは、その内のひとつの様態であるにすぎない。
 例えば一神教が支配的な社会では「まるで主を愛するように隣人を愛しなさい」と説かれるし、血縁を重視する社会では「血は繋がっていないが、まるで家族のようにお前を愛する」という言葉が真実味をもって語られる。セクシャリティよりも友情が支配的な社会もある。
 古代の日本では兄弟関係をとても大切にしていた為「まるで妹のように大切にする」という意味で妻を「妹(いも)」と呼んだという説もあるし、戦中の日本では「臣民は陛下の赤子」であるとしてこれを同胞愛の基盤にしていた。


 以前プリキュアのテーマについて語ったこと(id:izumino:20040509#1084112893)も、このようなものの見方に関係している。
 『ふたりはプリキュア』というアニメは、プロデューサーのコメントなどから察するに「友達を作るのが苦手な女の子が友達をつくれるようにしよう」というただそれだけのことを届けようとしている作品である。
 「最近の女の子は友達を作るのが苦手」というプロデューサーの分析は、現代が「友情が支配的な社会」ではないことを示している。そのような社会を生きる女の子にとって、「友情」よりも「ロマンス」を想像する方が容易いだろう、とスタッフが判断するのは自然だし、実際それは有効そうに思える。だから、プリキュア同士の友情物語に説得力を持たせる為に意図的な「混同」*1が繰り返されているのだとぼくは読む。


 一方、「セクシャリティが支配的な社会」に唯一抵抗しているのが、言うまでもなくホモソーシャルに生きる男性達である。フィクションの世界で言えば、少年漫画的友情やサムライ的主従関係などが代表的なホモソーシャルだろう。
 しかしこれもオタクの世界では少しずつセクシャリティに置き換えられつつある。多くの萌えヒロインは少年漫画の主人公を女性化したような性格をしているし、大抵の主従関係も片方を女性化することが容易い。古い例で言えば牛若丸は弁慶に対して女性化されてきたし、最近の例で言えばサムはフロドに対して女性化されているのである。「ガンパレ」における芝村と速水の描かれ方などは、「異性愛化された友情」の典型でもある。
 そこでは友情と異性愛、主従関係と異性愛は渾然一体となっている。


 急に話題は飛ぶが、最近は身障者をモデルにしたTVドラマが流行しており、かつ、不評らしい
 安易なお涙頂戴として酷評されているようだが、これは感動ドラマで「愛」を説明しようとするからいけないのだ。むしろ、登場人物が(役者が)ちっともセクシャルじゃなかったから飽きられたんじゃないの? という気がしてならない。観てないけど。
 なぜ障害者をひたすら可愛く、性的に、魅力的に描こうとしないのか。主人公にクソ萌えられれば、視聴者は勝手にクソ癒されてしまうのだから、そうすれば良かったのだ。純真無垢に描くくらいなら、嘘っぱちなくらい可愛くしてしまっても良かったはずだ。これも、セクシャリティが入り口となって「愛」に誘導することのできるケースである。
 ぶっちゃけた話、魅力的な障害者は健常者よりも萌える。
 その場合、ヒロインがイノセンスである必要は無く、自分の性的魅力を良く理解している図太い女の子であれば好ましい。
 やおい的な想像力で言えば、車椅子生活でワガママなダメ男と良妻賢母的な男の組み合わせなんかも萌えるだろう。
 いっそのこと、乙一の『暗いところで待ち合わせ』をドラマ化すれば良かったんじゃないのか? あの萌えを再現できるとは、期待してないが。
 相手をセクシャルに好きになる所から、「障害者に優しく」という考え方をスタートさせてもいいんじゃないだろうか。
 そういうことに気付いている人は、どうも少ないように思える。

  • 追記

 セクシャリティの優位性だけを強調するのは危険なので、それが当てはまらないケースも提示しておこう。
 現代では、母娘間の愛情を「まるで友達のような」と説明する女性は多い(もしくは父子間の愛情をそのように説明する男性も少ないながら居るだろう)。この場合、家族愛よりも友情の方が彼女ら(彼ら)にとってリアリティのある言葉であることが窺える。「まるで友達のような」という説明の中にセクシャリティが入り込む隙間は、あまり無い。

*1:異性愛とその他の愛情をわざと「間違えられる」ように描くこと。前出の記事を参照されたし