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 移行後のはてなブログ:izumino’s note

以前のマリみて考察が書きかけの途中ですが、ちょっと思いついたことがあったのでそれをひとつ

 少年漫画でも映画でもなんでもいいんですが。やおい女性が「男と男の友情モノ」の中に恋愛性を見てしまうのは、当然ながら「作者の隠れた意図」でも「隠された構造」でもなく、読者の一方的な「読み替え」に他ならないわけです。

 それに対して、男性読者が「マリみて」に登場する女性達の仲の良さについて「百合ってほどじゃない」とか「これは友情のレベルじゃないの」とか、そこから更に発展して「少年漫画的な男同士の友情を女性の姿を借り、過剰な形で(男性同士では不可能なレベルで)演じている」、という感想を持つこともできるわけです。わけですが、これも読者側の一方的な「読み替え」ですよね。
 少なくとも、ぼく自身も「女性間で行われる、理想的な友情」、と意図的に読んで楽しむことはできます(そもそも、ぼくは西森博之の言う「異性同士が助け合う話よりも同性同士が助け合う話の方が深い友情を描ける」発言が好きですし)。
 ですが、これも当然ですが作者が意識して書いているとは思えません(可能性があるとすれば、「少年漫画→BL→BLの裏返しとしてのGL」という流れで男性間的な友情が「遺伝」しているというストーリーが考えられますが)。

 ここで思い浮かぶのは、ものすごく一般論的な言い方になってしまって作品論的じゃないんですが──「女性は恋愛的にしか愛情を認識することができず、また、男性は友情的にしか愛情を認識することができないんじゃないか?」という仮説です。
 これが先天的なものによるのか、後天的な社会生活・読書経験によるものかは判りませんが……。
 すると男性が「ああ、俺、恋愛しとるんや」などと実感している瞬間、彼は「異性に感じている友情を恋愛と錯覚している」ということになるんでしょう。……フツーの恋愛論っぽいですねぇ。
 逆に言うと、男性には「自分が感じている友情を恋愛に錯覚する機能」が備わっているということでもあり、つまりヘテロの男性が同性愛を嫌悪するのは、その機能にスイッチが入った瞬間、いつでも「男同士の友情は恋愛に錯覚可能である」、という恐怖を本能的に知っているからかもしれません。お、既存のジェンダー論に繋がってきましたね。セジウィックっぽい。

 この仮説が正しいとすれば。我々男性がマリみてを読むに際して、男性は「友情しか実感できない」「恋愛感情を知っているわけではない」「そもそも恋愛は友情の錯覚でしか起こりえないかもしれない」、といった事柄を(個人差はあるにしろ)意識しておいた方がいい、ということになるかもしれません。百合だ百合じゃないという前に。
 マリみてのようなソフト百合作品を恋愛的に読もうとした場合、「実作品→友情→恋愛」という、二段階の読み替えが必要になってくるから感情の判別が難しい、とも言えるわけです(聖や蔦子はちょっと別。あれは「男性的視点の持ち主」という別の読み替えフィルタを使う人が多いと思います)。
 付け加えるなら、マリみてが「萌えである/ない」という疑問になかなか判断を下せないのも、萌え感情と恋愛感情が決してイコールではなかったという歴史が関係しているかもしれませんね。