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萌えの入口論 解説(4)

4:総論/出口論

■総論

 本論に記述してきた論理を全て覆すようだが、筆者も「萌えは理屈ではない」という考え方を捨ててはいないし、皆さんにもその「理屈ではない部分」にこそ意識を向けてほしいと思う。

 赤松健論でもそうなんですが、ぼくは長文論考の中に「読者を自説から解放する」メッセージを必ず入れるように気をつけています。
 考えるタイプの人は、この理論を更に発展させたり、覆すようなことを考えていただくのが一番です。その場合、オリジナル(=いずみの)の意見なんかは気にしなくたっていいでしょう。そりゃまぁ、あんまり文脈を誤読されまくっても困りますが。
 考えないタイプの人は、理解した後で忘れてください。ただし、「入口論」の理屈と一緒に他の理屈(萌え定義やらなんやら)も全部忘れてしまうこと。


■おわりに 〜 入口論から出口論へ
 出口論は……これ、強引に短くまとめてますが、これだけで独立した議論ができる問題だと思います。
 ここではとても全てを語りきれないのですが、おおまかに要点を絞ると、

  1. 萌えの世界から現実に戻って、自己復元する ・・・ リカバリ
  2. 萌えの世界と現実との接点を探して、自分に活かす ・・・ フィードバック

……の二つにまとめられると思います。
 リカバリーは、現実に持ち帰るべきでない不要なものを吐き出す、排泄行為(自浄作用)のようなものだと考えていいでしょう。
 反面、フィードバックは、消化作用による栄養摂取ですね。
 特に意識しなくても自然にできている人はできていることだとも思いますが、できない人はとことんできない課題であるような気もします(ぼく自身、意識しないとできません)。


 リカバリーが必要なのは劇場映画なんかでも同じで、例えば興奮のクライマックスシーンのまま映画がブツっと終わったりなんかしたら、観客の頭の中では「映画が続いている」ので席を立てません。スクリーンに夢中になってたのが、自分に帰れないんです。
 だからハリウッド映画では、最後に適当なテーマを登場人物に語らせて(わざと「興醒まし」してしまう)、特に意味のない背景なんかを大写しにしてからエンドロールに入る。そういうテクニックについてはここで岡田斗司夫が解説してくれています
 これを「萌え」の問題に置き換えた場合、受け手は萌え対象に深く感情移入してしまっている筈ですから、その中から出てこれるようでないといけない、ということですね。
 場合によっては対象と癒着してくっついてる場合もあるから、ひっぺがす必要もある。これには色んな症状があって、症状に応じた対処法を用意しないといけません。


 例えば、普通の漫画やアニメだと、カップルが成立する所まで行ってもセックスしたり家庭を作ったりする所までは描かれませんから、キャラクターに感情移入しすぎてるとモヤモヤしたものが残ってしまいがちです(※一般の受け手はそこまで入れ込んだりはしない)。
 その時にオタクが求めるのがエロ同人誌やSS小説であって、エロ同人は単なるオカズという役割以上に、キャラに対するモヤモヤを晴らす出口としての役割が大きいわけです。この動機はおそらく、かつて女性オタクがやおい同人を作り始めた頃から不変の動機のひとつでしょう(エロ同人のネタの為に原作をチェックするような本末転倒も珍しくはないですが)。
 「セックスしてやっとハッピーエンド」という考え方もあれば、「純情を汚すことで自分の気持ちにケリをつける」という出口の作り方もあるでしょう(逆に、好きなキャラのエロ同人を読みたがらない人は、萌え感情をこじらせて一人のキャラを引きずり続けるケースが多い気がします*1)。


 そうして考えると、出口としての同人誌はオタク業界全体の消費スピード(回転率)を速める役目を果たしていることも解ります。同人誌でフラストレーションを吐き出すことによって、どんどん次のキャラに乗り換えられるわけですね。
 二次創作活動を排泄行為に喩える人は少なくないと思いますが、二次創作をする(読む)ことで、作品(キャラ)に対するケジメになるわけですね。まさに「補完」というやつです。代償行為とも言えますね。


 ブログに漫画やアニメの感想を延々と書き続けるというのも排泄行為であって、自力で出口を作っている例だと思います。
 ただし、これは二次創作同様、手段が目的化してしまうきらいがあって、「サイト更新」「同人活動」から抜け出られなくなってしまう、という危険性も孕んでいます。*2「出口から外に出たと思ったら、そこもまた別のドツボの中だった」という冗談のような出来事は、オタクやってりゃありふれたことですので、気長に向き合いましょう。


 また、萌え対象に感情移入しすぎるあまり、相手の心理と自分の心理を同一視するようになってしまい、自他の境界が曖昧になった混乱状態(ジェンダーパニック)に陥るというパターンもあります。これは対象を「客観的に」愛でてるつもりでも、相手から影響を受けてしまう機会はいくらでもある筈です。
 男性オタクが、妙に男臭い漫画を読んで(「男萌え」することで)「美少女萌え」とのバランスを取りたがるのは、この状態に違和感を感じてしまうからでしょう。
 別に「男は男らしく、女は女らしく」という紋切り型の結論に導く意図は無いんですが(結果的にそういう形に落ち着くケースが多いでしょうけど)、どっちにしろ自己イメージを忘れるのは危険だということですね。


 フィードバックの考え方は、リカバリーと似ていてちょっと違うのが、フィクションから現実に戻る際に、フィクションの要素を再構築して自分の一部にしてしまうという点です。
 架空のキャラクターを愛した、または愛された。その経験は自分のどこに残るのか? 物語の中でキャラクターの感情を追体験した記憶はどうなるのか? 物語に感動したということは、何か役に立つのだろうか? そういうことを考え続けるということです。
 ジェンダーパニックの問題についても、対象の「異性性」から良い部分だけ学んで自分にフィードバックできていればそれでいいわけです。


 また、何よりも危険なのは、萌えが深刻化するあまりに自己嫌悪のスパイラルが発生したり、現実の人間を愛せなくなってしまう、という事態です。こういったギャップも最終的には埋めていかないといけないでしょう。
 具体的には「■現実に「萌え」は持ち込めるのか」の段で説明したことの応用が役に立つのではないかと思います(遠回りのような気もしますが、対人恐怖症の人がイチからコミュニケーションを学ぼうと苦労するよりかは、よっぽど効率的でしょう)。
 とりあえず、身内に同性の友達を作って、友達と仲良くする(=友達に萌える)所から、少しずつ他者との関係性を強くしていくようにすればいいと思います。
 よく萌えオタクは「現実に愛は無い、二次元には愛がある」と言いますけど、じゃあ、友達との間に「愛」は無いんでしょうか。

 そのロールモデルとして有効活用できるだろうと考えられるのは、ジュブナイルや少年漫画に見られる「少年の成長もの」「ヒーローもの」の物語形式である。ジュブナイルの世界では「年上の女性に支えられて戦うヒーロー」「好きな女の子の為に戦うヒーロー」が繰り返し描かれるが、これはそのまま「脳内彼女に支えられて現実を生きる自分」に置き換えて読むことが可能だろう。また、優れた「ヒーローもの」は受け手に活力を与えるよう描かれているものだから、「萌え」と組み合わせた相乗効果が狙えるのである。

 こう書いてはいますが、物語は所詮物語であって、「追体験」は疑似体験ですから、本当の体験ではない。人間は「実体験」でしか成長も学習もすることのできない仕組みになっていますから、「萌え」から得られるものは常に「ほんの僅か」でしかないと心得ておいた方がいいでしょう。
 しかし「ほんの僅か」だからこそ貴重なのだという考え方もだってできます。

 いわゆる、オタクが好む「燃え」とは「萌え」と同様、「やり場の無い熱」だけを受け手の心の中に溜めてしまうものだが、そのような「現実の自分にフィードバックされない」熱は、本当の意味で「ヒーローもの」が持つ「熱さ」ではないと筆者は考える。

 だから、フィクションを読んでグワーっと元気が出る、バリバリ動ける、という劇的な効果は、現実的にはあまりありえないと考えています(熱血漫画を読んで本人も熱血できる人は、元々元気な人なんでしょう)。
 そういう劇的な「活力への変換」が可能だと考えている人は、虚構と現実の区別が付いていない、精神的に幼い人でしょう。あるいは、ヒーローものが持つ「熱」の利用法について頭を回したことの無い人かもしれません。
 「熱」の内、何を捨て、何を残すのかということを考えないと、うまく現実の活力に変換することはできません。


 そのノウハウ(方法論)をこそ「成長もの」や「ヒーローもの」から学ぶといいんじゃないか、と思います。「熱」はすぐ空回りして雲散霧消してしまいますが、ノウハウなら記憶に残って自分に役立てることができますから。
 だから桂正和の『ウイングマン』はヒーローものの傑作と呼べる終わり方になっています。主人公の物理的な成長や、ヒロイン萌えによるモチベーションなんかは全て最終話でリセットして、「ヒーローとして活躍した経験」だけを主人公に残して終わる。あの主人公の姿は、「ヒーローものを読んで、追体験した読者」と限りなく近い形に落ち着いている。
 つまり、読者がトレースできない要素を主人公から削って、読者がトレース可能な要素だけを主人公に残した。だから『ウイングマン』の読者は読後の「熱」を現実に持って帰れるんです。*3


 また、論の中で「やり場の無い幸福感」という表現を用いていますが、例えば鬱がまぎれるとか、ストレスが癒されるとか、要するに『電波男』で言う所の「喪闘気」を萌えの力で抑えるということですけど、これは「内向きに癒す力」なのだと思います。
 心身に与えられているマイナスの破壊的なエネルギーを緩和してゼロに近づけようとする力なんですが、これはマイナスをゼロに戻すことはあっても、外向きのプラスには向かわないのではないでしょうか。
 根本治療になっていない場合も多いから、結局、麻薬のように連続して「萌え」を摂取しなければいけなくもなる。


 そうなってくると逆に「出口」が必要になってきます。(読んだことのある人でないと解りにくい喩えですが)藤子・F・不二雄の「やすらぎの館」みたいな状態になってしまう。*4
 こういうのをぼくは「閉じた萌え」とみなしています。というか、大抵の萌えはみんな「閉じた萌え」ですけどね。それがいいとか悪いということではなく。


 (これまた未読の人には解りにくい喩えですが)『ひみつの階段』という少女漫画は、「閉じた萌え=やすらぎの館タイプ」ではない、出口の用意された作品ではないでしょうか。
 あれは一見、「永遠の青春時代」(作中の言葉を借りれば「ティル・ナ・ノーグ」)を描いたノスタルジーのように思えますけど、「少女時代を思い出すことで、自分の生活を再発進させる大人達」の姿が繰り返し描かれている、優れた「ファンタジーと現実の往復物語」でもあります。
 紺野キタの影響を強く受けている(と思える)今野緒雪マリみてシリーズも、「ティル・ナ・ノーグ」型の形式を踏襲していますから、そこから「出口」のエッセンスを学び取ってもいいでしょう。*5

最後に

 商業的に考えれば、「萌えの出口」は商品の回転率を加速させるものですが、優れた「出口」になりすぎると顧客を卒業させる(満足させきってしまう)ことをも促すだろうと思います。*6そうすると他の商品を買ってもらえなくなるので、だったらむしろ、萌えに出口を作らない方が売る側にとっては好ましい、という話になってしまうかもしれない。
 実際、オタク業界では「誠意ある終わらせ方ができずに受け手のフラストレーションを溜めさせ、そのまましれっと続編を用意してそっちに期待させる」ような売り方はよく見掛けるでしょう。飼い殺しに近いというか。
 しかしその作品(キャラ)の内面世界から抜け出るか、引きずり続けるか、または次の作品に乗り換えるかは受け手の好き勝手なのですから、消費者側が「出口」を選べた方がいい筈です。理想論ではありますが。


 ここでいう「出口」とは、必ず「出」なければいけない、と勧めているものではありません。自分で選択して出ればいいのです。だからこそ、出口を見つけておくことは「無駄ではない鍛錬」であろう、と本論の最後を締めくくっているのです。好きな時に、自分の意思で外に出られるのですからね。

*1:それも人の好きずきですが。というかぼく自身がエロ同人をあまり買わないタイプだし

*2:その「手段の目的化」こそがオタク活動の本質であって、それこそがオタクの楽しみであることも事実ですが

*3:余談ですが、『Fate/stay night』のセイバーと桜をウイングマンのあおいさんと美紅ちゃん、と置き換えて考えてみても面白いかもしれません

*4:かいつまんで粗筋を説明すると、社会のストレス(=喪闘気)で病気になりかけの男性が、「やすらぎの館」で幼児化することでストレスから解放され、病気を癒すのだが、精神が幼児化したまま大人に戻れなくなる、という話

*5:「ファンタジーと現実の往復」というテーマを直球で読者に投げつけた、エンデの『はてしない物語』は基本

*6:映画や漫画とかでも結局そうで、「これ一本さえあれば他のはもう要らない」と思わせるような名作とヘタに出会うと、本当に他のものを買わなくなってしまう