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『劇場版 魔法少女まどかマギカ[新編]叛逆の物語』ネタバレ気にしない感想

 というタイトルにしつつさほどネタバレしませんが。

「劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語」公式サイト

 まどマギ劇場版すっげー良かった! というのが一番最初の感想でした。
 テレビ版は絶対に続編が必要な、不完全な話だと思い続けてましたから、続編をねだっていたのは正解でした。
 これでアニメとしては満足できたので、本当に良かった。


 ひとつひとつ言えば、人間がキュウべえのシステムを超えたことをやって「人間」に対してびびらせる、それを理屈ではなく人間の「気持ち」だけで作り出す、誰かがしっかりとあの(まどかが一人で勝手に出した)結末を拒んでなきゃいけない、のスリーポイントで個人的な期待はクリアしています。その上で、予想を上回る映像でもあった。
 「本編でやり残したことがあったから続編が生まれて、それで怪我の功名的に更にまとめ上げることができた」シリーズというのも過去に様々ありますが、まどかマギカもその一つに挙げられるはずです。


「SFアニメとしての楽しみ方」は上掲のまとめ(SFフリークの音楽家・吉田隆一さんの対話)で広げていますが、そこでも書いているように「SFだったテレビ版に対して、SFとメルヘンファンタジーを両立させた」映像としてぼくは高く評価しています。


 ファンタジーとして「叛逆の物語」を読む場合、リンドグレーン『はるかな国の兄弟』と、それを解説した河合隼雄『ファンタジーを読む』などが良い手引になるかもしれません。
 ファンタジーの中で「死」や「世界の終わり」がどう前向きに描かれるのかが良くわかると思います。


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  • 河合隼雄のファンタジー論(もしくは少女文学論)としては『子どもの本を読む』という本も併せて読むことをお勧めしますが


 今はエンディングテーマであるKalafinaの「君の銀の庭」をしげく聴き込んでいます。


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 ところで、これを海外リリースする際に「悪魔」をDevilと訳すのかSatanと訳すのかが気にかかりますね。
 というか「神とサタン! 小池一夫のキャラクター塾だ! 本人に会っただけのことはある!」と激しく思ったのはぼくだけでしょうか。
 鑑賞後(?)の小池先生が「また虚淵さンと会って話を聞きたい」と言っていたのも「キャラクター塾」からすると頷ける話ですね。

僕は、いつも最初の授業で「世界最大のキャラクターはイエス・キリストである」「永遠の二番手キャラクターは悪魔である」と教えています。悪魔は、強大な力を持ちながらも、キリストには勝てません。
悪魔が強ければ強いほど、それをものともしないキリストの威光は増し、その力は引き立ちます。


正しい主人公と、それを邪魔する、悪の存在の物語です。

クリエイターズ・ノート | CLIP


 神と悪魔といえば、結末から真っ先に連想したのが『セイントデビル -聖魔伝-』という伝奇漫画でした。
 あまり知られていない作品だと思いますが、初期の石川賢の原作付き作品で、原作は辻真先
 そういえば辻先生もまどかマギカが好きで、こういう連想の繋がりは楽しいですね。


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『魔獣戦線』を経た石川賢が原作者を得て、自ら「ストーリーマンガの描き方を知った」という愛と憎悪の物語。絵柄、描写、スピー ド感ともに、石川賢最初の頂点がここにあるっ!


〔中略〕


ユンクとテレサは永遠の戦いを続ける神と悪魔の両頂点、天使ガブリエルと悪魔リリスの愛の結晶であった。では憎悪の方はと言えば、神と魔たちの戦 いであり、人間同士の滅亡に向けたバカ騒ぎである。こと視点を人間に限って言うなら、ストーリーの中で黙示録的な形で終末を迎え、人間の生きる次元そのものが消え失せてしまう。ここまではデビルマンと同じだ。


〔中略〕


一方聖魔伝は、そこで終わらなかった。神と悪魔に分かれて、闘う二人。それは 「ぜったいれいど」の物語の中で逃れられない宿命だ。そこには福音も破滅からの救いもない。人間はルシフェルの仕掛けであっさりと絶滅するし、そのルシフェルすらガブリエルとリリスの戦闘に巻き込まれて死を迎える。そこには意味など拒否するかのような血まみれの闘いがあるのみだ。描かれるべきは破滅なのか?


否、である。「業」として互いを憎むのも生きることなら、また「愛」も然り。 それは互いに存在するだけなのだ。一見非常に難解な形で描かれてはいるが、この物語は最後には読者とともに過ごした時間をも相対化してしまう。ラストを迎えた段階で、ガブリエルとリリス、ユンクとテレサが愛に生きるために 「どこかへ」向かうところで終わるのだ。それは時空をも超越した、純粋な愛の世界である。が、それは闘いの終結を意味するものではない。別の時空間では相変わらずガブリエルらもユンクらも、人間達も神も悪魔も血を流し続けている。己のエゴをむき出しにして。


あらゆる時空間にある愛と憎悪の形。それら全体が『聖魔伝』という物語すなわち「ぜったいれいど」である。それらに必要以上に隠された意味はない。善 も悪も愛も憎悪も何もかも融け合った混沌があるのみだ。

ハンマーでぶちわってやるーっ!

子どもと犬の物語/『映画ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス!』感想

  • 劇場で捺した記念スタンプ

映画ドキドキ!プリキュア マナ結婚!!?未来につなぐ希望のドレス

 ドキプリの映画観ました。フックとなる「マナ結婚」はあくまでストーリーの大枠で、メインテーマとしては犬好き直撃のヤバイ泣ける映画でした。
 ペットとしての「犬」はプリキュアシリーズで度々登場してくるモチーフですが、「子どもが自分の一部であるかのように一体感を感じているペット」としての描き方がこの映画では群を抜いています。
 そもそも「一体感を伴うペット」はマスコットキャラの妖精たちがすでに担っている役割ではあるんですが、それでも「犬」と(犬好きの)人間の絆は、歴史と本能から来る重みがあって、妖精とのそれを超えるということかもしれませんね。


 また、ペットとの死別も「人生経験」の一種であるわけで、主要客である幼児らにとってこの映画は、共感するものではなく「これから起こるかもしれないこと」でしかないでしょう。
 逆に、人生経験のある大人や、主人公のマナと同世代の学生らにとっては「共感」や「同情」を伴う映画になりうるわけで、例年以上に「大人にも子どもにも向けて作っている」と感じいるドラマでした。


 また、犬とマナの関わりを通じて、彼女の精神形成を描いた物語にもなっている。
 マナは由来抜きにあんな性格になったのではなく、ちゃんとその原点があることが理解できます。
 ペットとの死別というトラウマを、未然に防ぐドラマとして眺めると、精神科医ヴィクトール・フランクルの人生観を連想する部分もありました。


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 生きる目的を自分の内面の中に求めることはやめて、自分以外の世界から求められている何かを探すべきだという、フランクルの考えがちょうどマナの精神形成に当てはまっている。その点で優れた児童文学になっていると評したいものです。


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「女たちの映画」としても観た『風立ちぬ』

 ブロガーの伊藤悠さん(漫画家の伊藤悠さんとは別人)と先日配信した『風立ちぬ』感想Ustから、「女たちの映画」として語った部分の書き起こしです。
 全体では三時間ほど喋った内容のうち30分くらいを抜き出しています。


 『風立ちぬ』という映画は「男(男の子)の映画」として解釈されやすくて、「女たちの映画」という視点は見過ごされがちだと思うんですが、むしろそういう風にも半分観ていた、という話をしています。

伊藤悠さんとの『風立ちぬ』感想Ustream - ピアノ・ファイア

  • この録画の最初から30分ほどに該当

町山智浩さんの感想の書き起こしがまとめられていて、それが男の話……ホントに男と男の子の映画として『風立ちぬ』を読んで、もの凄く明快に、いい映画だって風に語ってて。まぁぼくは、これに付け加えることは特にないなあ、くらい納得だったんですけど。町山さんもめっちゃ楽しそうに語ってましたね。それで、ここまで男の子の話をまとめられると、あとないのは女の視点の話だなあという風に思ってまして」

「そこですねー、それはね、ぼくまだうまくまとまってない……というか、よく解ってないんですが。なんか、納得する見方や解釈は、まだない」

「ぼくが劇場で観たとき、ちょうど隣に座ってたのが若い女の人だったんですけど、まぁラストシーンでグズグズ泣いてて、泣いて席を立ってはった感じで。まぁ、泣ける映画らしい。ただ、その後、お友達の女性の人が、すごい苛々すると。男の都合……ものすごく男の欲望で作られているように見えたんでしょうね。まぁ女は犠牲者である、という風に観れんこともないし。そういう割り切れない感じに対して、ぼくは、ちょうど同じタイミングでTwitterで言ってたのが、これは男性による感想について言ったことなんですけど、『風立ちぬ』への批判を聞くと、さだまさしの“関白宣言”を聞いて男尊女卑ソングだと怒り出す人を思い出すというのと、その言い訳ソングである“関白失脚”を聞かないと納得しない人みたいじゃないかなあと。さだまさしの“関白宣言”ってまぁ、男尊女卑に聞こえなくもないけど、もの凄く、女を愛してるっていうラブソングですよ。で実際、そこで歌われていることが全て実現するとはさだまさしも信じてないわけで、というのを“関白失脚”っていうヤボな曲でバラすという構図になっているわけですけど。でもまぁ、それを女の視点で捉え直したらどうなのかなあっていう。もうちょっと、そういう話を、相手を変えてしたいっていう気持ちはありますけどね」

「そうなんですよね、あれねー、なんかうまく……うまくまだね……」

「まぁちょっと、いかに女の物語なのかってことを整理しましょう」

「うんうん」


「ぼくはまだ、堀辰雄の『風立ちぬ』と『菜穂子』はKindleで無料だったんでダウンロードだけして、実はまだ読んでないんですけど、一応、冷泉彰彦さんが読者として、サナトリウム文学としての『菜穂子』の立ち位置というのを解説していて。あれはこう、当時の時代としては、女の自主性を描いてるんだっていう。(堀辰雄の)『風立ちぬ』のヒロインの方は、もうちょっと、男に対して従の立場にいるんですけど、『菜穂子』の主人公の女性の方は、どちらかというと自分の生き死にのタイミングを自分で決めるタイプの人間として描かれているみたいなんですよね。つまり、自我がある」

「なるほどね? ふんふん」

 ですが、小説『風立ちぬ』の節子が、「婚約者である私」に愛されつつ若くしてこの世を去る「純愛と薄幸」のキャラクターに単純化されているのと比較すると、小説『菜穂子』の主人公は全く違う複雑性と深み、そして「女性としての強さ」を与えられているのです。


〔中略〕この「勝手に抜け出して中央本線で新宿に帰ってくる」という菜穂子の行動で、堀辰雄は新しい時代の女性のエネルギーであるとか、苦悩を背負う「個の輝き」の表現に成功しているように思うのです。


 宮崎氏は、映画のクライマックスでこの「菜穂子の療養所抜け出し」というエピソードを堂々と取り込んでいます。その毅然とした姿は「菜穂子」であって「節子」ではないのです。これがヒロインの名前の背景にある理由だと思います。そして、この映画のファンになった方々には、原作として堀辰雄作品に触れる際に『風立ちぬ』だけでなく、『菜穂子』を読まれることを強くお薦めします。

映画『風立ちぬ』のヒロインが「菜穂子」である理由 | 冷泉彰彦 | コラム&ブログ | ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト


「『菜穂子』っていうタイトルをヒロインの名前に充てたっていうことはきっとそこに意味があるだろうと。まぁつまり、映画を見るかぎり、二郎は嫁さんの横でタバコを吸うし、自分の仕事と女のどっちが大事だっていうと、両方大事だって言って(苦笑)、嫁さんを仕事の巻き添えにしたりする、もの凄く身勝手な男に見えるんだけども、まぁ、でも、菜穂子の方もあれはかなり魔性の女ですよね」

「そう、それはね、そう思うんですよ、そうそう」

「全然、男の言いなりにはなっていない。で、たぶん原作の『菜穂子』の方で描かれているであろう、自分の生き死にを自分で決めるっていう……まぁ、時代の限界があるから、そりゃウーマンリブにはなりようがないし、女が絵画をやっても評価してもらえない時代なのかもしれないし、そこで発揮できるのは、せいぜい自分で生き死にのタイミングを決めて、男を一時的に自分のもとに縛り付けるくらいのことしかできなかったのかもしれませんけど。でも全然、女の話だと、思うんですよね」


「うん、あのー、あれさ、イチャイチャさ、キスするじゃないですか」

「えぇ」

「あれ結核ってさ、死病だからさ。めっちゃ感染するから、あのー、死んじゃうよ? って感じなんですけど。あれ、タバコはタバコだけどさ、結核の人とキスもするしさ、なんかね、ちょいとエッチなこともしましょうかとかね。あれはなんか、二郎先生はタガが外れてるな、っていうとこで。そういうところはあるし、その読みもあると思うんですよね。えー? みたいな。結核に感染したらかなり死んじゃいますし。実際嫁さんは死んじゃいますけど」

「当時の医学レベルがどうかわかんないんですよね。ちなみに時代によっては、タバコが結核に効くって信じられていた時代もあったそうですけど(笑)」

「……(笑)」

「さすがにそこまで旧時代的じゃないのかな、あの時代は(笑)」

「それはともかく。ねぇ、二郎先生は死ぬようなことをガシガシやっていくんで」

「あれはだから、二郎先生がよっぽどタガが外れてるっていう、完全な主人公の物語として解釈するのとは別に……。あそこはもう、菜穂子の魔性ですよね。たぶん、ああいう風に完全に誘導してるんですよ。これも誰かが言ってるのを読んだんですけど……、貴方に会ったらすぐ帰るつもりだった、って駅で言うじゃないですか」

「はいはいはい」

「その後に、ずっと一緒にいよう、ここで暮らそう、って告白するじゃないですか。で、それを観た女の人のつぶやきで、あれは言わせてるね、っていう」

「うんうん」

「明らかに誘導させてる」

「そう、そう、あの流れって、ああ言われたらこうなるっていうね、詰将棋ですよね。三手詰めみたいな」

「ははは(笑)」

「すぐ帰るつもりだった、って、えっ!? そ、そこにコマを置かれたら、ここにいてくれ……としか返せないよね」

「菜穂子に二郎先生がコロコロ転がされてて(笑)」


「だから結構、そう、そういう読み方はできる気がしますね。その……なんというか相身互いというか、どっちもどっちじゃないですけど。刹那主義のふたりが出会ったみたいな感じで」

「宮さんはどのキャラクターにも感情移入して入れ込みながら作るはずだから……。『ポニョ』作るときに、この娘は怖いねーって言いながら津波を起こさせてたみたいなもんで、菜穂子に関しても、この娘は怖いなあって思う部分を加えて描いてたんじゃないかなあ」

「あのさ、軽井沢のときのやり取りなんですけど……」

「はい」

「あの謎のドイツ人が、君の仕事はそのうちなくなるわー、みたいなことを言って、二郎先生は仕事のギアチェンをするんですけど、そのとき恋愛的にもギアチェンをしてる気がするんですよ。あのドイツ人との話がなかったら、求婚まではしてないかもなーって気がするんですよね」

「あぁ、はあはあ。全っ然説明されないですけど、あそこの突然の、僕たち結婚します、は確かにそうですよね」

「うん、なんかね、じゃあ治るまで待ちましょうか、って言う気がするんですよ、ドイツ人の話がなければ。でも、いや君らなんかずっとこの暮らしが続くと思ってるかもしれないけど一瞬の夏の日のようなものだよ、とドイツ人に言われて。言われてみればそうである、こんないい暮らしができるのも、これからガチでアメリカあたりに喧嘩を売ったら、こんな仕事、こんな暮らし、なにもかもなくなってしまうかもしれない」

「そうか、まだ戦争してないタイミングだから、父親にしてみればこの二人はそんなに愛し合ってんのかーって、二人の愛の強さで決めたんだなって思うんでしょうけど。多くの観客もそう受け取ると思うんですけど。確かにいとゆうさんの言い方だと、危機感で婚約したことになりますね」

「だからそれまでさ、色んな可愛い女の子を見てるからね。飛行機半分、女の子半分で見てて、あの子も可愛い、この子も可愛いと思ってたわけですね二郎先生は」

「菜穂子の横にいた女とか」

「そうそう最初はさ、恩に着てくれた人とはいえ、お絹ちゃんの方が気になってたわけですよね。でも、あそこでもう一回会ってね、告白されて。その時に、いやーずっと色々目移りしている時間もねえよ、と言われるわけですよ。あっ、そう言われればそうかもしれない、と」

「ふんふん」

「で、菜穂子ちゃん自身、可愛い女の子だけど、やっぱさ、結核にかかってて、キスとかできないと思うんですよね本来。伝染るから。空気感染するような病気だから。接触したらモロに移ると思うんだけど。だから、あれはいいところのお嬢さんではあるけど、お嫁さん候補としては結構……かなり、なんていうの、なかなかその、お見合い写真には載らないような人だと思うんですよ。いやいやこの人結核なんでしょ、ちょっと無理でしょってふうにさ、なる。本来。だからあのお父さん引いてるじゃん」

「(笑)引いてますよね」

「ねえ? え、ウチの娘を!? いや言ってくれるのは嬉しいけど、正味どうよ、と思ってるわけですよお父さんは。イヤイヤイヤ結核かかってるし治ってないんですよ。言ってくれるのは嬉しいけど正味ないでしょ、と思ってるわけですよ。君エリートだろ? 三菱に行ってる。で、出身も、地元の地主の息子でしょ。次男とはいえさ」

「あー、お父さんには訳わからんわけですけど、二郎と菜穂子の二人は同じものを見ているわけですね」

「なんかその、違うものを見てるけど、方向性が似てるんだと思うんですよ。片方は自分の病気なわけです。これで死んじゃうんじゃないか、っていうね。で、夫の方は、そういうその、国や工業力みたいなレベルでこの暮らしはなくなるんじゃないかと思ってる。あと10年だ、と思ってる。その刹那的限界を持ってる二人が出会って、じゃあ、なんか相身互いで、ここは行くかーと。そういう関係ってことなのかなあ?」

「そこは非常にロマンチックですよね。理屈として本人たちが説明できる事柄じゃないでしょうけど、行く先短いと思ってる菜穂子が、自分が死ぬまでに一緒にいる男に選んだのが、当時のまだ戦争に踏み込んでいない日本っていう国の中で、唯一こう、あのドイツ人を通じて危機感──実は先があんまりない、っていう緊張感を持った男を選んだっていうのはちょっとロマンチックですよね」

「なるほどね。なるほど」

「たぶん本人たちが言葉にして説明することじゃないと思うんですけど。でも多分そこで、一緒にいていい、付き合って、横にいていい、っていう風に感じたっていうのはありそうですよね」

「そういう関係なのかもね。どこまで互いになんかそういう話とかしてんのかよくわかんないんだけど」

「それもそうだな。そもそもあの二人がした会話を俺たち聞いてないからな(苦笑)」

「そうなんですよ、どういう話してんのかなっていうのはあって。でも少なくとも、女の子の方の、病気の手の内は結構わかってるわけじゃん。で、二郎先生の方はどういう話したのかな、っていうのはあるんですよね」

「(Ustのソーシャルストリームで)みやもさんが書いてくれてるのが、二郎が煙草吸うからちょっと離れるよ、と言ったら「ダメ」と言ったのが菜穂子ですからね

「そう、ああ、なるほどね、そこをそう読むわけか」

「ちゃんとこう、引き止めて誘導してるのは、コントロールしてるのはむしろ菜穂子の方だっていう」

「なるほどね。そうか、そう読むと状況を動かしてるのは菜穂子なわけか」

「わがまま。結構、菜穂子はわがままなわけですよ。あっ今、わがままを悪い意味で使ったわけじゃなくて、つまり、自我がある。ちゃんと自主性のあるキャラとして、尊重されて描かれてるのが菜穂子だと思うんですよね」

「なるほどそういう読みもアリかあ。ふんふん。あの、軽井沢でさ、謎のドイツ人がさ、あの後さ、応援するじゃないですか」

「あ、婚約を祝福しますよね」

「そう、あれは……」

「あー! それも二人の動機がドイツ人にはわかってるからか。お前ら会話もせずにわかり合ってイチャイチャしてるなって感じだなあ(笑)」

「そうだし、自分の言ったことを信じたからですね、二郎が。ちょっとコナを振ったくらいのわけです、最初に話した時のドイツ人的には。言ってる意味わかるかねー? みたいな。ユンカース博士のファンだっていうあたりから、ちょっとコナを振るくらいだったのに、二郎がスパっと反応していきなりギアチェンをするわけですよ」

「日本のインテリもなかなか賢いのがいるなー、くらいの感じなんでしょうね」

「そうそう、過敏に反応しやがってと。なので、その後は全力で応援しにくる。いや素晴らしい結婚だとか言うわけですよ。イヤイヤイヤ(笑)、片方、結核で、ねえ? 大丈夫かー? っていう感じなんですけど、ドイツ人的には、いやもう(拍手)素晴らしい素晴らしい、と。で、お父さんドン引きみたいなさ」

「お父さんだけわかってないから(笑)。……あー、いやあ細かいですねえ。細っかい演出してますねえ。腹芸だなあ」

「自分の言ったことを信じてくれたから。あのドイツ人の演出は面白いですねえ」

「宮さん、いつも何の腹芸やってんだっていう感じの」

「やはり宮崎駿先生の演出力というのは、恐ろしい、緻密さがあると思いますね」

「日常的にそんな演出やってんじゃないかと思いますけどね(笑)」

「うん。なんか、いよいよ老人の繰り言か? みたいなことを言う向きも、見たりすることもあるんですけど、『ポニョ』のときもそんなこと言われていたし、きっと『ラピュタ』のときも言われてたんだろうなと。まぁどうなのかなー? でも、んー基本なんか、緻密なことをやってると思って観てしまった方が。俺にはまだわからないが何か技を使ってるんじゃないか、みたいな方が面白いような気がしますね。でもそうか、なるほどなあ。菜穂子ちゃんがあの二人の関係の、結構イニシアティブを持っている。というかイニシアティブを取ろうとしているということなのかな」


「で、女たちの話をしたいんですけど」

「ふんふん」

「あのー、どっちかというと男の犠牲者として描かれているのが、妹の加代の方で。で、妹は社会的立場の方から、女性的実現をしようとしてる人なんですよね。医者になろうとするし。まぁ、女性医師というと、幕末のシーボルト・イネをぼくは連想しますけど。働く女性になろうとしているわけですよ、あの時代において。実際その夢を叶えてるんだけど。でも、流石にこう、男尊女卑的な社会の枠組みたいなものには逆らいきれないみたいなところがあって。まあ兄の決めたことには逆らえないし。せいぜい、私は怒っています、と言うことくらいしかできないっていう」

「まあ、言っても、弟だとしても二郎を止められるもんじゃないでしょう?」

「あ、そこは止められるかどうかの話じゃなくて要するに……、女の味方に立つかどうかっていう話ですね」

  • ここで考えていたことの補足

 妹の加代は、幼少期で描かれているように、「兄と自分の区別がつかないくらい、兄と同一化していて、いつも同じことをして、同じ遊びをしていたい」と考えることが自然というタイプの子だった。


 精神的に兄と同一化していた妹は、「自分にとって興味のない飛行機に兄が夢中になっていく」に従って、兄と自分は異なる人間なのだと自覚していったのだろう。
 しかし幼少期に兄と同一化していた体験から、加代はおそらく性差というものを不自然に感じながら育ったのかもしれない。


 成長して家族に敬語を使わなくなった二郎に対して、敬語と対等語を混ぜて話しているのも、「敬語で対話していた幼い頃の兄に戻ってほしい」という苛立ちと、「やはり今の二郎に合わせて自分も同じ喋り方をしたい」という同一化願望の双方に揺れている様子も感じさせる(※このあたりは妄想)。


 貧しい時代だから女が労働すること自体は珍しくなかったろうが、堀越の実家はそういう環境でもないだろうし、嫁入りもせず自立して働く女性になったのも、働く兄に張り合って、というか、男と女の違いを受け入れがたい考えをしているようにも映る。
 つまり加代には、戦中の時代において男女同権思想の萌芽が見える。一方、それとは対照的なのが黒川夫人の存在だ。

「あそこで加代ちゃんは、奥さんの立場に自分の身を重ねている。完全に、奥さんの味方になってるじゃないですか、あそこで。だから、そんなの酷い、あんまりだ、と言って泣くわけですよね。そういう意味で、加代ちゃんは奥さんが男の犠牲者だと思っている。すごくいい人なのに、って」

「さっきいずみのさんが言っていた、菜穂子が三手詰めで結婚式までの展開を持っていく、っていう見方からすると、菜穂子を山に戻さないで、離れで生活させている菜穂子さんが可哀想って言う妹さんには、その三手詰めが見えてないってことでしょう?」

「そうですね」

「お兄ちゃんのエゴで連れてきてるんだと思ってる」

「で、妹ともの凄く対照的なのが黒川夫人の方で。黒川夫人も凄く面白いキャラクターなんですよね。宮崎先生のキャラクターの引き出しの中でいうと、もう……必殺カードみたいなキャラクターじゃないですか」

「そんな気はしますね、その……」

「ま、クシャナからエボシ御前に繋がっていく類型のキャラクターがそこに置かれてるんですよね」

「なるほど? あれはクシャナ=エボシ御前ラインだっていうこと?」

「ええ。で、特にエボシ御前がどういう人間だったかっていうと、まぁ女の立場で、男性社会を内面化している存在なわけですよね」

「ふんふん」
「女ではあるけど、男社会を肯定しているキャラなわけですよ。肯定っていうと語弊があるかな」

「我が物としているということだね」

「その男性社会の枠組の中で、女性の自己実現てのはあるものだと思ってるんですよね。女はタタラを踏んで働けばいいし、自己実現の方向が、男性社会を継承しつつ、そこに女の役割を作り出す方向で動いているわけですよ、あの類型のキャラクターっていうのは。だから……」

「なるほどね、なるほど! だから、そうか、黒川の奥さんはあの展開で、菜穂子ちゃんのロジックに乗っかってるんだ。そうか、なるほど」

「……乗っかってはいますけど、多少価値観は違いますよね。菜穂子は本当に、女のわがまま、男の都合なんて知ったことかっていうくらい魔性なんですけど。黒川夫人は、女のわがままを男性社会の中で実現する方法を知ってるんですよね。だから……」

「そうか、なるほどね。だからあれは三手詰めじゃなくて実は五手詰めで、最後の二手は黒川の奥さんが指してるんだ」

「ふふふふふ(笑)」

「そうだな、きっと。ふんふんふん」

「男社会における女の幸せっていうのを、黒川夫人は語ってるんですよ。もの凄いキップがよくて、もう姐御って感じの人なんですけど、ちゃんと女は男を立てるものであるとか、そういうことを弁えてる。その中で、女の幸せは作り出せると思ってるんですね」

「あのさ、なんていいお嬢さんでしょう、って言って、早速着替えさせて、とか言って、大丈夫よあの人はいつもああなの、とか言うじゃないですか? で、この展開に持ち込んでしまえば、あとの二手は自分が演出できるっていうことですね、黒川の奥さんが。その読みで言うと。あそこに転がり込んで来るまでは菜穂子が三手詰めをして」

「菜穂子のやりたいことを、完全には理解してないかもしれませんけど、お膳立てることはもう完全に計算できてるでしょうね」

「うんうん。そうか、そうだよね。あとは女の支度があります、とか言って席を立ってしまえば、後は、私がセッティングする線に旦那はもうついてくるしかあるまい、と」

「うん。だから昭和っていう時代の価値観において、女性的な自主性っていうものを発揮しようとした菜穂子ってのがまず中心にいて。で、その女性の味方に立つんだけども、何もしてあげられなくて泣いちゃう妹の加代と、全力で応援して良しとする黒川夫人がいるんですよ。この三つが映画の中に内在している」

「そうか……だから黒川は家長ではあるけど、あの家のマネージメントの部分では、奥さんにああ動かれたら、実はそれに乗っかるしかないんだ」

「確かに最初は黒川さんも戸惑ってましたからね(苦笑)。ええっ!? みたいな」

「それをその、じゃあ女には女の支度があると言われちゃうと、待てとは言えないんだなあ」

「すぱん! って言われてしまうとね」

「だから後は、障子を開けて出てくるまで、お前待ってろ、って言われて、アッハイ、ってことになるわけだ。そうかー、黒川の奥さんは、自分の綺麗なところだけを見てほしかったのね、って最後にまとめますけど、あれはもう全然わかっちゃってるからあれを言うわけですね」

「それこそ、スポンサーを騙くらかして自分の夢を叶える設計者の仕事にも近いですけど、こー男をうまいこと乗せながら自分のやりたいことをやるっていうすべを完全に身に付けている人ですよね」

「その読みはなんか面白いなあ。なるほど」

「だから、女たちの映画だと思うんですよ。この三人を描き分けてるっていうところに注目した話ってあまり見掛けないなー、と思ってて。女の人の意見を聞きたいなって思うんですけどね」


「ふんふん。なるほど、まぁ、どうかな、その、こちとら、男子ぃーなんで」

「男子なんで(笑)」

「適当なこと言ってるかもしれないですけど。でも面白いですね。なるほど」

「と、いうのが……。なんかね、でもその描き方が好きなんですよね」

「黒川の奥さんね、格好良いですからね」

「それがさっき言ってたのが、さだまさしの関白宣言には歌われていないんだけども、こう、女の姿が見えてくるみたいなもんで」

「なるほどね、だからそこが(今の『風立ちぬ』批評の)片手落ちじゃないかということですね」

「想像すれば想像できるじゃないですか。関白宣言の、あれだけ愛されている奥さんってどんな人間なんだろうっていうのは。旦那にあそこまで愛させた女だよ? というのはね。と、思うんですよね」


「いやあ、菜穂子ちゃん、結構あれね、あれもあれで緻密な女の子ですからね」

「(笑)賢いですよね」

「再会した王子様に、いやお絹ちゃんもうお嫁に行ってまして、みたいな状況説明を素早くするあたりのとかね」*1

「(笑)」

「そうそうそう、必要な情報だよねそこ、みたいな」

「こう、すかさず今付き合ってる人いないんですけどアピールをできるタイプ」

「そう、付き合ってる人いないんですアピールと、あの娘はもらわれて今幸せになっとりますっていう説明をするというですね。だからちゃんとわかってるわけですよね、お絹ちゃんの方を見てたっしょ、みたいなさ、あの地震の時も」

「さとい」

「でもね、ちゃんとこう、二郎先生も、最初から君のことが好きだった、みたいにこう、あそこでちゃんと言えるというですね。うんうん、みたいな」

「ははは(笑)」

「瞬間的に人間的な力を発揮したみたいな。あれたぶんだから15分くらいしか保たないんだけど(笑)」

「で、(菜穂子も)ようし、ここは触れないでおいてあげるか、っていうね」

「そうそう」

「言わしておいてやるかーみたいな」

「そうそう、っていうかまあ、よしよし、それ言わしたわー、っていうことでしょ」

「(笑)こっちの勝ちっていう話ですか。あ、『ラピュタ』の親方のオカミさん? も黒川夫人に入ってるってみやもさんが言ってますね。誰がそのシャツ縫うんだい、って」

「あれは、大喧嘩のオチを持っていく系の演出になってますね。また野郎どもがくだらない喧嘩をしやがって、みたいな感じにまとめる人のはずですから」

「ああ、確かにキップがいいですね。あんまり広げると魔女宅の奥さんもそうだろうってなりますけど(笑)」

「野郎の、そういうね、いにしえの時代にいたからといって、別に、じゃあ女子が肩幅を狭くして生きていたというわけでもあるまい、っていうことですかね」


「まぁそこらへんはホント、『ラピュタ』作ってて、ムスカにもちゃんと感情移入できるように描いちゃう、宮さんならではの、もーどのキャラにも感情移入しまくりだなあ、っていうのがよく出てると思うんですけどね。アンタどのキャラも好きだろうっていう」

「うんうん。ほんとねぇ、ムスカも愛されてますよ。めっちゃこう、どういう生まれでどういう育ちをしてきたかの設定が緻密にあるというか」

「黒川夫人の話ができたのでぼくは結構満足かな」

「(笑)そうですね、黒川の、あの奥さんがそういう読み方をするというのは、ぼくも、なるほどーと思いました」

「みやもさんは最初、(二郎や他の話題よりも)妹の話ばっかりしてて。(ぼくも)妹もすごい好きですけど。妹さんは、さっき言ってた、その菜穂子を中心にした対比の部分ですかね。あのー、女性的な自立を目指そうとしてるんだけども、社会的な枠組にはまだ抗い切れてないし、その中で女の幸せっていうのもいまいち掴み切れてないキャラクターですね。まぁだからこそ、大事だと言えますけど。んだし、ちゃんとあそこで菜穂子のために泣く人っていうのは必要ですしね」

「ふんふん」

「みんながみんな、黒川夫人みたいに、菜穂子を笑顔で送り出してもしゃーないな、それはそれで、と思うんで。それこそ、大事な(『風立ちぬ』のコンセプトである)矛盾の部分が、残らないですしね。黒川夫人の保守的な考え方を全肯定すればいいわけじゃなくて、そんなのあんまりだ、別の生き方があるはずだ、って否定する妹がいるわけだから。だからすごいバランスが取れてるんですよ『風立ちぬ』って」


「いやホントね、その、人物の配置がすごく緻密で、その……」

「あらゆる、エクスキューズに応えるだけの情報は出てるんだと思うんだけど、なぁ」

「浮いてるキャラはいないですよね」

「ぼく、観終わった後の感想も、いわゆるカタルシスがないし、結論もないから、スカッ! とはしないけども、観た後の気分はすごくよかったんですよね。いいバランスの映画だなあと。すごい、緩急のない感じで進むけど、そういうしんみりする映画も、たまに観るにはいいもんだー、って思いながら劇場を出ていったら、わりとみんな、感想で喧々囂々言い合ってて(笑)。イヤそんなに粗のある映画だったかなー? みたいなギャップがあったんですけど」

「本当に緻密ですね。そのー、なんか主人公が体を動かして何かを達成するっていう中間目標があまりないので、そこが弱点と言えば弱点なんでしょうけどね。これを乗り越えた、みたいな、そういうのが三幕構成的に、ここ、ここ、ここ、みたいな風にはなってない。とは思いますね」


 ここでは『風立ちぬ』や、宮崎駿監督の創作を肯定的に語っていましたが、以上をひっくるめた上で「それはどうか」という感じ方もあろうと思います。
 でもまぁ、こういう見方も無視できないんじゃないか、面白いんじゃないかということですね。


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関連

 「ヒロイン視点で見た宮崎アニメ」という話では、『カリオストロの城』について語ったエントリもありました。
 こちらは女性からの評判もよろしかったお話です。

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*1:この菜穂子の計算高さは岡田斗司夫氏も語っている。→ http://amzn.to/17ffljy

宮崎駿監督アニメ映画『風立ちぬ』感想

 東京→仙台という旅程から関西空港までの空路で関西に帰ってきた23日に、『風立ちぬ』観てきました。


 旅の疲れで流石に眠くて、そのせいで集中して観れてなかったかもしれないんですが、劇場出た後の余韻のいい作品でした。
 抑揚の少ない主演・庵野秀明の素人喋りと、作品全体の抑揚のなさがリズムとしてマッチしていて、その合わさったリズムが作品の印象として記憶に残りやすい、という現象があって面白い。
 抑揚がないといえば、戦争映画にせず、戦争シーンを排除してあるのは意図的だったとも聞きます。


 ところで『コクリコ坂から』(企画脚本が宮崎駿)において、同期の同僚大好き男が妙にイチャイチャしてくるのはどのスタッフの趣味かと思ったら、駿さんの意向だったということでいいんですか……? と思うくらいに『風立ちぬ』も同期の同僚大好き男が主人公のこと好きすぎる。


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 アニメーターとしての宮崎駿にとって「同期の同僚」というとパッと思い付く人物がいないこともあって、あのホモソーシャル関係は彼にとってのファンタジーなのかもとも。


 また、上映前の予告に高畑勲監督の『かぐや姫の物語』の映像があり、そちらへの期待も高まりました。
 宮崎駿が『風立ちぬ』を通して「戦争しようが自然を壊そうが機械が大好き」という「ジブリらしさの宮崎駿的側面」をぶっちゃけている一方で、『かぐや姫の物語』は「かぐや姫罪と罰」をキャッチコピーにしており、テーマの呼応を感じることもできるでしょう。
 当初の予定と違って、順番としては『かぐや姫』の公開が後出しになりましたが、この両監督の「終わらないバトル」的にはちょうどいい順番かもしれません。


 岡田斗司夫さんは『風立ちぬ』の主人公の描写から「美しいものにしか関心がない非人間性」を読み取ったそうです。
 実際、あの主人公は自分の生き方に関して何も悪ぶらないし、葛藤もないように映る。そこに「演技のこもっていない平坦な庵野秀明の声」がまたマッチしている。


 それは「私もそういう人間なんです」という宮崎駿の自己表明として見るか、あるいはポニョに対して「この子は恐ろしい子ですよお」と言っていたように思い入れつつもキャラクターを他者として怖れるような気持ちが本人にはあると見るか、で作家論的な評価も変わりそうですね。


 ちなみに今調べてみたら、今作のオマージュ対象であろう堀辰雄の『風立ちぬ』『菜穂子』がKindle版で無料になってました。とりあえずダウンロードしておきました。

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NHK Eテレ「ハリウッド白熱教室」で解説された音響効果

http://www.nhk.or.jp/hakunetsu/hollywood/index.html

 講師は南カリフォルニア大学の名物教授で、「ハリウッドの生き字引き」と呼ばれるドリュー・キャスパー。
 この最終回のテーマは「音響効果」で、ゆうべ録画を興味深く見ていました。


 フランシスコ・フォード・コッポラ監督の『地獄の黙示録』以降言われるようになった「サウンドデザイン」という概念の成り立ちや、映画音楽家ヘンリー・マンシーニの仕事の紹介が印象に残りました。


 特にマンシーニの映画音楽に関しては、『ティファニーで朝食』や『いつも2人で』において、映像(役者や車などの動き)のタイミングと同期させた曲作りを紹介しています。


 「これは音楽を先に作ってから撮影したのでは?」と思ったドリューは『いつも2人で』のスタンリー・ドーネン監督に直接尋ねてみたところ、「あれはマンシーニの手柄だ」という答えが帰ってきたそうです。
 実は映像の後から作曲している、と。


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マンシーニの手柄」とは何なのか

 ここでのポイントは、初期の映画において「映像を編集した後から作曲し、映像に合わせて演奏・録音する」という手法は当たり前に行われていたということです。


 しかしドリューや、この講義の聴講生は「音楽を先に作ってから撮影したのでは?」と疑い、「後から作曲した」という事実の方に驚くという流れになっています。


 劇伴というものは、大別すると、音楽を先に作り溜めておく手法を「溜め録り」、後から映像に合わせて作曲する手法を「フィルムスコアリング」と呼びますが……、つまりフィルムスコアリングで作曲すること自体は別段、マンシーニに特筆することではないわけです。


 ということは、ドリューらが想定していた「フィルムスコアリング」は、さらに二種類に分けられると考えたらいいかもしれません。


 ひとつは映像の情感や雰囲気に合わせて作曲・演奏・録音を行うタイプのもの。
 このタイプの場合、音楽が映像と同期するポイントはカッティングやシーンが変わるタイミングなどに留まり、映画音楽としては一般的なイメージを与えるものでしょう。


 もうひとつは、映像の中の動きに合わせるための同期ポイントが多いタイプのもの。
 これはディズニーアニメに典型的な劇伴の作り方としてみなされていたようで、「ミッキーマウシング」と呼ばれるようです。


 ただ映画音楽として、ミッキーマウシングはあまりいい意味で捉えられていなかったそう。
 ちょっと検索するとこんな記事も出てきます。

カートゥーン音楽を評するときに、よく皮肉まじりに「ミッキーマウシング」ということばが使われる。たとえば、「Film Music 2nd ed. ( by R. M. Prendergast)」を見てみよう。

ミッキーマウシング:明らかにカートゥーン漫画の音楽を皮肉ったことばで、映像のひとつひとつの動作が音楽に「捕まっている」状態を指している。 (p. 80)

音楽と映像を形式上どうやってうまくつなげるか、という問題は、音楽がスクリーン上の動作を「サルマネ」する(ミッキーマウシングする)ことで解決できるわけではない。ミッキーマウシングはカートゥーンでは期待されているといってもいいくらいだが、ドラマティックな映画では、うまく扱わないと場違いでつまらないものになってしまう。 (p. 228)


・・・とまあ、カートゥーン音楽に1章を割いている本の記述からしてこの程度なのだが、じっさいのところ、多くのサントラファンは、カートゥーン音楽を、「なんだかいちいち動作に音がつくクドい音楽」てなイメージで片づけているのではないだろうか。

http://homepage3.nifty.com/elevator/cartoon/mickeymousing.html


 つまりこういう認識に立つと、「いちいち動作に音がつくクドい音楽」にもならず、「シーンの情感に合わせて流れるBGM」にもなっていなかったマンシーニの音楽は、「先に楽曲の構成をしてから、撮影する段階で動きを合わせた」という手法をまず疑わせるものだったのでしょう。


 要するに、ただ動きに合わせて音をつけてしまうと作曲のセオリーを無視することになり、わざとらしい音楽になるはずが、マンシーニ「ちゃんと動きに合わせた上で、わざとらしさを感じさせないくらいに自然な音楽としても成り立たせている」曲を与えた。
 その才能をして「マンシーニの手柄」とされているのだ……と、推測していいでしょう。

アニメ音楽とフィルムスコアリング

 余談ですが、じゃあミッキーマウシングは映画音楽としてダメなのか、というとそうでもなく、ちゃんと再評価する流れがあったそうですから、念のため加筆しておきます。


 音楽家の吉田隆一さんに教えていただいたことですが。



 作曲のセオリーから外れた、異質なタイミングもまた一種の「音楽」の要素になりうる、ということなんでしょう。


 また、海外の映画やカトゥーンに限らず、日本のアニメにもフィルムスコアリングの歴史はあります。

 元来アニメーションというのは、絵が出来てから、後で音楽を入れるものである。ミッキーマウスが歩くのに合わせ、あとから足音を絵の動きに合わせて入れたことから、映像に音楽をシンクロさせるのを「ミッキーマウシング」というのだそうだ。
 古典的名作「白雪姫」や「ピノキオ」をはじめ、ディズニーではないが、「トムとジェリー」や日本では「ジャングル大帝」などもそういう作り方である。 
 これらを見ていると、転んだり叩いたりするのに合わせて曲中にアクセントを入れたり、動作に合わせて音楽のテンポを変えたりと、かなり芸が細かい。作曲家の冨田勲氏は、「ジャングル大帝」の音楽をやっていた時、毎週音のない映像を見てはそれに合わせて作曲し、動きをあわせるために変拍子を挿入して微調整したり、フィルムにパンチで穴をあけ、それをキュー(入りの合図)代わりにしたりして、手作業で映像に合わせていたそうである。
 この「ジャングル大帝」(虫プロ制作の旧シリーズ)もDVDボックスを持っているのだが、時代を感じさせる部分も多々あるが、「ライオンキング」がまるまるパクッたという雄大なオープニングなど何回見ても感動する。

http://blog.livedoor.jp/a_ohyama/archives/50061723.html

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 『ジャングル大帝』のミッキーマウシングは古いケースですが、その一方で「シーンの雰囲気や情感に合わせて曲を作る」タイプのアニメ音楽は最近でも度々試されているようです。

各話に合わせて制作(フィルムスコアリング)されたハイクオリティなBGMは作品の世界と完全にリンク。「CANAAN」の世界そのものを感じ取ることが出来る渾身の仕上がりとなっています!

http://www.minp-matome.jp/news/detail/5811

◆完成した映像にあわせ、BGMを作曲する、
テレビアニメの常識を超えた、これが"あやかしサウンドシステム"だ!
おまもりひまり』では放送の半年前に映像を完成させ、作曲家がそれを見て各シーンに合ったBGMを作曲するという方法が取られた。

http://kadokawa-anime.jp/omahima/introduction/

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 これらのように、「いちいち動きと音を合わせた」(一種アバンギャルド)な音楽や、「シーンの雰囲気に合わせた」一般的な音楽だけでなく、マンシーニのように「後から動きに合わせているのにまるで予め作曲していたように感じる」音楽、というのも紐解いて探せば存在するのかもしれません。


 アニメの映像と音楽の完全なシンクロというと、世代的には『新世紀エヴァンゲリオン』の第九話「瞬間、心、重ねて」を思い出します。
 あれは楽曲(「Both Of You, Dance Like You Want To Win!」)が先で、絵コンテ(樋口真嗣)が後という順番でした。


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 最近のアニメの流行としては、ライブシーン、ダンスシーン、楽器演奏シーンなど、まさに「音楽が先で、映像を音に合わせる」表現が飽和しているくらいの印象があります。


 ただしそれらは「劇中で実際に演奏されている音楽」に合わせた映像であって、エヴァ九話のように「純粋なBGM」に合わせたアクションとは少し傾向が違うものでしょう。
(一応、エヴァのBGMもシンジとアスカが訓練中に聴いていた音楽が流れている設定のはずなので、純粋なBGMというよりやはり「劇中曲」に近いのでしょうが。)


 個人的に、映像と音響が調和した映像というのはすごく好みですから、どんな順番の作曲であれ、「映像の動きに合った音楽」というのはもっと見てみたいと感じますね。

中国武術史映画『グランド・マスター』のモデル

映画『グランド・マスター』公式サイト

欲望の翼』の人気監督ウォン・カーウァイが、初めてカンフーという題材に挑んだアクション映画。ブルース・リーの生涯ただひとりの師匠として名高い武術の達人、イップ・マンの知られざる物語を紡ぎ出す。トニー・レオンチャン・ツィイーという豪華キャストを迎え、カンフー映画や中国映画の概念を覆す鮮烈な映像美を創出した話題作だ。

グランド・マスター - MOVIE ENTER〜映画情報サイト - livedoor ニュース


 劇場公開日は2013年5月31日。
 カンフー映画好き、中国武術好きとしては外せない作品だったので、先日友達と観てきました。
 「痛快カンフーアクション映画」という趣ではなく、武術家としての生き様を歴史ドキュメンタリーのタッチで描いていく作品、と言えるでしょうか。


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 カンフー映画としては『イップ・マン』シリーズを先に観てからにしたり、逆に『イップ・マン』シリーズの入門編として観るといい映画かもしれません。
(時代が時代なので、抗日映画っぽく映るところもありますが気にしない方がいいでしょう。)


 あとチャン・ツィイーは今年で34歳の女優ですが、変わらぬ美しさでしたね〜(ファンなんです)。

モデルとなった武術家との比較解説

 以下、かじった程度の知識で『グランド・マスター』のモデルの解説をしてみます。
 対象読者は「有名な武術家の名前や門派なら知ってるけど詳しい関係は忘れた」程度の中国武術が好きな人です(このブログの読者の何%くらいだ?)。


 武術映画としての見どころは、(一人だけ実名の人物として描かれる葉問を別にして)実在の中国武術家をモデルにしたようなキャラクターが複数描かれることでしょう。


 八卦掌の「宮宝森」は名前からして「宮宝田」がモデルですし、八極拳の「一線天」の経歴は劉雲樵を連想させます。

宮宝田→宮宝森(宮羽田)

 宮宝森は『グランド・マスター』の中文Wikipediaによると「宮寶森、又の名を宮羽田」と書かれており(葬送のシーンで宮羽田の字が出てくる)、思いきり宮宝田の記事にリンクされていたりします。


 もっとも、名前を変えているだけのことはあり、家族関係や人間関係は映画の創作です。
 映画では本来の八卦掌は完全に伝わらずに途絶えたような結末でしたが、実際は甥の「宮宝斎」によって台湾を中心に伝承されているようです(さらにその系統は「八卦“拳”」と呼ばれ区別されています)。


 宮宝森の功績として「八卦掌形意拳を統合した」と語られますが、同時代のその功績なら宮宝田よりも孫式太極拳の「孫禄堂」のイメージですし、そちらの八卦掌は(宮宝田の師にあたる)尹福の「尹式」ではなく「程式」ですから系統としては別物。とにかく色々な人物を混ぜているキャラクターなんでしょう。

劉雲樵→一線天

 八極拳の一線天は、劉雲樵だけでなく李健吾の人物像も加わっている、と指摘しているサイトもありました。

电影《一代宗师》中张震扮演的角色“一线天”原型可能就是〓云樵和李健吾的混合体。

《一代宗师》再掀武侠热 真实的民国武林一代宗师_中国国情_中国网


 どちらも李氏八極拳の「李書文」の弟子であり、劉雲樵が国民党の特殊工作員、李健吾が共産党の要人警護隊武術教官という経歴を持ちます。
 本名を伏せていて「一線天(カミソリ)」というコードネームで呼ばれているのは、劉雲樵のコードネーム「天字一号」から来てるんでしょう。


 メインのモデルは、この劉雲樵なのでしょうが、雲樵は台湾に亡命して武術界を築き、台湾総統府侍衛隊の武術教官となりましたが、一線天は香港に移住して弟子を作ったことになっています。


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  • 漫画好きなら『拳児』に登場する「黄河一号」こと劉月侠のモデルが劉雲樵、と説明するとわかりやすいでしょう


 ちなみに一線天を演じたチャン・チェン張震)は、吉林省の長春で行われた八極拳の全国大会で優勝したんだそうだから驚きです。


 大会は中国本土ですが、八極拳そのものは台湾系の(劉雲樵系統の)ものと天津系のものを両方学んでいたようですね。

チャン・シン(張震)演じる『一線天』こそは、大戦中『天字一号』というコードネームの工作員として活躍した台湾武壇八極門の宗師、劉雲樵大師がモデル。 チャン・シンに3年間八極拳を指導したのは、武壇門下の陳國欽老師。

鹿児島中華武藝班功夫組 - ウォン・カーワイ監督、トニー・レオン主演の映画「一代宗師」...

王世泉:《一代宗師》八極拳指導,中國武術協會委員、北京武術協會副主席、北京市武協八級拳研究會會長,八極拳第八代傳人,張震八極拳授業師傅。

Yahoo



 しかしちょっと調べると、八極拳大会の2日前に長春で「吉林省八極拳研究会」が設立されたばかりだったようで、なんだか話題作りになっているような気も。

武術網より、12月1日、長春吉林省八極拳研究会が成立したという記事。
会長に選出された孫生亭は、譚吉堂、斉徳昭、張継修等の諸師に師事したという。
長春では、孫氏の編による『長春八極拳全集』が最近出版されたばかりのようだ。


なぜ、ようやく今この時期に八極拳研究会が成立したのかはよくわからない。

吉林省八極拳研究会成立 - 中国武術雑記帳 by zigzagmax


 ちなみに長春系の八極拳といえば霍殿閣系統のもので、譚吉堂がその弟子ですから、この「長春八極拳」も霍氏の八極拳なんでしょうね。
(霍殿閣は劉雲樵の兄弟子で、満州国ラストエンペラーの侍衛隊隊長だったことで有名。)


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 八極拳は中国本土では比較的マイナーな門派なのですが、『グランド・マスター』でも、特に他流派と交流らしいものをしてないように描かれていました。
 国軍と結びついた、軍事的な側面を強調したかったのかもしれません。一線天が宮宝森の娘とわずかにすれ違うのは、劉雲樵が宮宝田と一時的に交流していた(八卦掌を学んでいた)影響かもしれませんね。
 映画に描かれていなかっただけで、一線天も宮宝森から八卦掌を学んでいた設定があったのかもしれません。


 あと個人的に満足したのは、「この時代の武術家はアヘンが好き」という要素をちゃんと放り込んでいたこと。
 中にはアヘンが原因で命を落としたような人物も登場していますが、アヘン好きでなおかつ武術の達人でいられるという当時の状況はなかなかに不思議です。



漫画や小説のメディアミックスで、原作ファンがガッカリするポイント

 アニメ化などのメディアミックス時に原作ファンが見たいのは「原作に触れた最中にうおおおおっと脳内で盛り上がったイメージをピンポイントで具体化したもの」でしょう、と、このあいだ人に話していました。


 その逆に、スタッフが作ってしまいやすい(しかも自信満々の態度で提供しやすい)のは「出来事をまんべんなく質の高い映像に落とし込んで並べたもの」であって、そこに原作ファンのガッカリポイント、ファンとスタッフの「軋轢」や「齟齬」が集中すると考えていいはずです。

熱心なファンは「深い感動」を経験している

 ある作品のファンになる動機としては、「強い感動」が不可欠です。
 そして、その感動には「脳内で勝手に盛り上がった主観的なイメージ」が必ずともなっています。
 この「勝手に盛り上がった」という部分が重要です。


 世の中の多くの作品……特にオタク向けの作品は、お世辞に言っても「万民が感動する」とは言いがたいもので、「ファンになる」ということは「偶然ツボにハマった」ということを意味します。


 「お世辞に言っても一般の人が感動するようなものじゃない」という作品であろうと、深く感動するのが「ファン」という存在です。
 悪い意味ではありません。
 どれだけ名作として評価されていようが、その深い感動は「ツボにハマったファン」だけが脳内で作り出すものであり、ファンにならない人間から見ればどうでもいいものなのです。
 この「ファン」を獲得しやすい作品のことを、我々は「優れた名作」と呼びますが、「深い感動はツボにハマった人の脳内にしか生まれない」という本質は決して変わりません。


 ぼくは「誰にでも見える情報」を顕在情報、「伏線をちゃんと覚えていたり、作品の方針を感じ取ったりした者しか意識しない情報」を潜在情報、と呼び分けて考えますが、後者の「潜在情報」で感動した人だけが、熱心なファンになると言えるでしょう。

主観的に伸び縮みする時間

 小説や漫画のような、(「見る」メディアではない)「読む」メディアの作品では、この潜在情報や「脳内の主観的なイメージ」が特に大きな働きをします。


 例えば「歌」でもそうなんですが、熱心なリスナーが「歌詞の意味に集中しながら聴く」ことによって、「歌詞のフレーズと歌手のキャラクターとメロディが一致して、一気にイメージが盛り上がる瞬間」があるでしょう。


 それは「歌詞を意識しないで聴く歌の良さ」とは全く別物です(音源が同じであっても)。
 CMソングや流行歌としか認識していないリスナーと、歌詞を読み込んだり歌手のバックボーンを知ったり、カラオケで何度も練習したりするようなリスナーとの違いがそこに生まれます。
 音楽の「顕在情報」だけを耳に入れるリスナーと、「潜在情報」を意識しながら聴くリスナーの違いです。


 また、「時間」というものは主観によって伸び縮みするものですから、同じ曲でも心理状態によって「実際よりも長く感じるフレーズ」や「実際よりも短く感じるフレーズ」が生まれたりします。
 歌詞に集中しながら歌を聴くと、感動的なメインパートは曲全体の大部分を占めているような錯覚を引き起こします。


 これを「主観時間の伸び縮み」と呼んでみますが、だから同じ曲であっても、単なるBGMとしてなんとなく流していると、「感動したはずのパートなのに意外とあっさりして聴こえる」現象が起こったりします。


 逆にいえば、「主観時間」で聴いていない、ファンでもない只のリスナーならば、そんな風にあっさり聴いちゃってるということです。
(だからよく出来たMVやPVは、あっさり聴かれちゃわれないよう、映像でリスナーの主観を「感動的なパート」に誘導してやるわけです。CMソングも「印象的なサビ」だけをカットして、フレーズを覚えてもらおうとします。)


 漫画や小説も同じです。ファンとして「主観時間を引き伸ばしながら」読まなければ、感動するポイントなんかないのが当たり前なんです。
 もっと言えば、読者の脳内でイメージが補われることに依存した漫画/小説は、「あなたの主観でなるべく感動的に時間を引き伸ばしてください」と訴えかけることでしか成り立たないエンターテイメントなのです。


 ダレ場はダレ場として読み飛ばしてもらわなければなりませんし、感動場面は「一文字一文字の重み」を感じてもらわなければなりません。
 その一文字の重みに「うおおおお」と唸り、血圧も上がり、体も震えた読者の心を掴むことで、はじめて作品は「ファン」を獲得します。


 その反面、よほどの箴言や名画でもなければ、どんな感動的なシーンの描写だろうと、一般人がそのまま読めば「ふーん」としか思わない文章(絵)に違いないでしょう。

漫画や小説にはリズムがある

 理想的な「漫画の読み方」にはリズムというものがあって、コマ割りを「音楽」に喩える作家や評論家も多くいます。


 当然ながら、アニメなどの映像は「音楽」に近いというより、モロに「音楽」と要素が重なったメディアです。
 読者が感じていた「音楽」の要素を、スタッフがすべて代替わりして作らなければいけません。


 漫画のコマ割りや、小説の文体から「音楽」の要素を読み取らずに(「詞」だけ読んで)、編曲もできていないのが悪い映像化だ、と喩えて言えるでしょう。


 漫画の原作ファンでも、コマ運びのリズムの美しさに引き込まれて感動してから、もう一度冷静に(リズムを作らずに)パラパラ読み返すと「なんでこんなのに感動できたんだっけ……?」と呆れることがあるくらいです。
 リズム作りで失敗してるアニメ化を見て醒めるのは、きっとそれと同じことなんでしょう。


 である以上、メディアミックス作品が「原作の感動」を再演するためには「主観的に時間を引き伸ばし、主観的なイメージで重み付けをする」といった「盛る」作業が不可欠になります。
 しかし、仮にスタッフ自身が「名場面」だと認識してようとも、「まんべんなく質の高い映像化」でそれが再現できると思い違いしているようなメディアミックスが、どうしても少なくなりません。


 コスト、制作期間、チームワークなど、大人の事情の複雑さは避けえないとしても、結果として、「このスタッフは原作のここを読んだときにうおおおおって少しも震えなかったの?」と原作ファンに疑心を抱かせるのではないでしょうか。
 何がとは言いませんので、好きな作品名と、ガッカリしたメディアミックスの例を思い浮かべてください。

「どこで一番うおおおおって感じたの?」の感じにくさ

 「うおおおお」と脳内で盛り上がるイメージというのは十人十色ですから、あるファンとスタッフの間で「うおおポイント」が異なったり、様子が違ったりするのは当然です。
 なら、だからこそ「じゃあスタッフはどこで一番うおおおおって感じたの?」という問いに対する答えさえ見付かれば、原作ファンとしては納得できるとも言えます。
(その上で「盛り上げるのはソコじゃないだろ!」と叩きたくなるかどうかは出来次第。)


 しかしチームワークによる映像化は「流れ作業」になってしまいやすく(これは一般に想像する以上に、ほっとくと流れ作業化が起こってしまうものだと思います)、結果として「主観的な重み付け」のない、各自のスタッフが分担されたカットのクオリティを上げただけ、という映像が出来上がりがちです。


 だから「スタッフがうおおおおと感じたであろうポイント」も映像から判断しがたい。
 「頑張って作ったんだろうな」と苦労が偲ばれるカットなら推測しやすいですが、それはコスト面の苦労でしかなく、「主観的な重み付け」とは関係ないでしょう。
 「なぜそこを原作よりも作り込んで盛ったのか?」というこだわりが見えなければ、ファンは「わかってるな」と言わないのです。


 ちなみに、この「俺がうおおおおって血圧上がったのはココ」という主観をピンポイントに伝えようとするのが「ファンの二次創作」であって、そこだけ比較すれば、二次創作の方が「よくわかってる」と言ってもらいやすいです。
 二次創作的であることは悪いことではありませんし、「良い二次創作」がなぜできないのかという疑問にもなるでしょう。


 視聴者はできあがったものからしか判断できませんから、スタッフが実際にどんな「うおおおお」を感じ取っていたかは映像からしか推測できません。
 しかし「主観による重み付け」がなく、クオリティだけが高い映像では、いくら原作に忠実だろうと「あ、原作のキャラや絵にしか興味なかったんだ……」と思われておしまいです。
(あるいは単に、「名場面を盛り上げたつもりなんだろうけど演出失敗してるな」と思われるか。)


 あと作品によっては「主観の重み付けとか、変なことしないで映像を美しくするだけでいい」ケースもあって、それはたぶん「シチュエーション萌え」で作られていた原作の場合です。


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 例えば『劇場版 空の境界』の「俯瞰風景」は映像が綺麗なだけで感動できたけど、「忘却録音」は変な重み付けがされていて醒めてしまった、という話もしていました。
(と、いう感想にも異論があると思いますが。うおおポイントは十人十色。)


 リズムの比喩でいうと、ミニマムや単調なリズムでもいいんだ、という原作もあるわけです。
 むしろそういう「単調な原作」を探して、綺麗な映像化をした方が効率的に手っ取り早い……とみなすこともできるかもしれませんね。それはとても後ろ向きなメディミックスの発想だと思いますけど。